相生の (あいおいの) 前編
冬の気配が緩もうかという頃、存在を主張するようになった腹部に手を添えながら
セイは自分に過剰にまとわりつく総司の姿に呆れていた。
こんな風にベッタリ甘くなるなど、あの頃の自分は欠片ほども考えなかったはずだ。
そう、あの頃。
それこそ今の総司のように事ある毎に自分に纏わりつき、細々とした事にも目を向け、
重箱の隅をほじくるように自分の過去まで暴きだした男のせいで、ひた隠しにしてきた
女子である事が発覚した。
卑劣にもそれを脅しの材料としてセイを我が物にしようとしたその男は、己の不用意な
行動から土方にその事実を知られ、士道不覚悟の罪で断罪されたが、
当然セイも性別を詐称していた罪で処分の対象となる事を覚悟した。
だが静かにその時を待っていたセイに命じられたのは、総司との祝言で。
自分の全てをかけて総司の事を慕っていたのは事実であったが、かの武士が
己の身を縛る妻子を持つ気が無い事は誰よりセイが理解していたし、
自分も武士として総司の盾である事に誇りを持っていた以上、
すんなり認める事など心情的にはできようはずも無かった。
しかし女子と知られたセイが隊に残留する事など許されるはずも無く、
またこの祝言が会津公と一橋公の後押しによるものである以上、
セイに拒絶する道など残されてはいなかった。
「沖田先生?」
梅雨の雨間を縫うように祝言を挙げた夜。
何一つゆっくり考える暇も与えられず、怒涛のような準備と祝言が済み
緊張の中で迎えた二人きりの時間。
並べて整えられた褥の中でセイが恐々声をかけた。
祝言が決まって、いや、セイが女子だと発覚してから、
総司とゆるりと話をする時間などなかった。
祝言が決まるまではセイが謹慎していたせいで。
決まってからは、屯所を出され里乃の元に預けられその準備に追われた事で。
今日から二人の新しい住処となる家は未だどこかよそよそしい。
それでもセイとて女子なのだ。
惚れた男と共に暮らしていく事に不安と同時に小さな喜びも感じていた。
ただ・・・初めての夜に対して恥じらいと戸惑い、
そして微かな恐怖があった事も確かで。
総司とて男なのだから夫婦となった夜には男としての本能が目覚めるかもしれない。
そう、セイは覚悟をしていた。
けれど其々の布団に横たわったきり、夫となった男は妻に背を向け
穏やかな寝息を繰り返すばかり。
ついにセイがしびれを切らして声をかけたのだが・・・。
ふぅ・・・。
小さな溜息がセイの唇から漏れた。
総司が寝たふりをしている事など判っている、屯所では夜毎布団を並べて
休んでいたのだ。
本当に寝ているのかそうでないのか程度は感じられる。
そっと音を立てずにセイが寝床を滑り出た。
そのまま隣室に向かい庭に面した縁側から月を見上げる。
やはり総司は妻など娶りたくなかったのだ。
以前言っていた言葉が耳に甦った。
(近藤先生の命令だから仕方が無いんですよ。
私は武士だから主君の命には黙って従うだけです)
セイを妻としろと命じられたから仕方なく夫としての立場に立つ事を決めたのだろう。
考えるまでもない事なのに、自分は何を期待していたのだろうか。
部下として、弟分として、弟子として、総司の近くにいた分だけ
少しは親しみを覚えてくれているのではないかと。
自分を妻として愛してくれるのではないかと。
期待していた自分を嘲笑う。
見上げていた月がぼんやり滲んできた。
愚かなり、愚かなり。
女子の性は、愚かなり。
女子のセイは、愚かなり。
あの清廉な武士の誠を守りたい、少しでも力になりたいと
己は生きてきたのではなかったか。
それがどうだ、足を引っ張るどころか足枷になろうとしているではないか。
いっそ女子と発覚した時に先んじて腹を切ってしまえば良かった。
けれど優しいあの男や隊の仲間達、局長副長、会津公や一橋公までが
自分の命を惜しんでくれた。
今更捨てる事などできようはずもない。
それでも誰が何を言おうと自分で自分が許せない。
愛しい男の障りとなる自分が、何よりも許せない。
月を仰いだままのセイの頬に、幾筋もの涙が滑り落ちていった。
静かに起き上がった総司の視線の先には、差し込む月光が作り出した
障子に凭れかかるセイの影が畳に落ちている。
二人の間を隔てる板戸のせいで、セイ本人の姿は見られない。
総司は胸の内で小さく溜息を零した。
セイが屯所を出されてから一度もその顔を見る事は無く、夫婦となる
今日この日に久々に見えたその姿はすっかり女子となっていた。
驚いたのだ、心底。
以前振袖姿を見た時にも感じた事だが、やはり美しい人だったのだと実感した。
と、同時に祝言を前にして嫁入り衣装を身に纏い、化粧も施し、仄かに上気した
頬と、恥かしげに伏せられたその瞳がどうにも眩しすぎて視線を逸らした。
いつも自分の後ろをついてきていた可愛い少女が、いきなり見知らぬ女子に
なってしまったようで、けれどその人を求めている自分がいる事も、また事実で。
落ち着かないどころか、今にも心の臓が胸を裂いて飛び出すのではないかと、
ずっと不安になっていたのだ。
結局は布団に入った後も、騒ぎ立てる鼓動をセイに悟られはしないかと
そればかりが気になって、セイが声を掛けてきたのにも答えることなど
できなかった。
(はぁ・・・・・・)
もう一度、胸の中で溜息を落した。
と、押さえてはいるが間違えようも無くセイのすすり泣く声が聞こえてきた。
それが耳に届いた瞬間、総司の体を緊張が走り、布団を強く握り締めた。
恐れていたのはこれだ。
思わぬ形で夫婦となる事が決まった瞬間から、あえてセイに会わぬように
してきたのは、これが怖かったのだ。
もちろん殿様達のお声掛りである以上祝言を取りやめる事などできない事は
セイとて承知しているだろう。
たとえどんなに不服でも、自分の不満ゆえに命を絶つほど愚かな娘では無い。
決まった事に従うだろう事は確かだった。
けれどその本心を確かめるのが怖かった。
自分にとって誰より愛しい娘は並みの女子では無かったのだから。
そこらの武士よりも誇り高い武士の魂を持ち、凛と背筋を伸ばして
誠を貫こうとしている少女だった。
男でさえ悲鳴を上げて逃げ出す鍛錬にも耐え、どんな苦境にあれども
その瞳から力を失う事の無い、稀少な魂の持ち主だったのだ。
それが女子だというだけで、生きる場所を奪われ、妻という枠に
押し込められようとしている。
祝言前に顔を合わせてそれを嘆かれたなら、妻になどなりたくないと言われたら。
・・・それが自分にとっては何より切ない事だったのだから。
セイのすすり泣きは続いている。
やはりこの婚儀を望んでいなかったのだと総司は唇を噛み締めた。
たとえセイの命を守る為とは言え、あの娘の自由な翼をもぎ取った結果は
間違いだったのかと悔やまれてくる。
それでも・・・失えなかったのだ、自分は。
しらじらと輝く月光は、すすり泣く娘と俯く男の姿を夜明けまで照らしていた。
「おはようございます。沖田先生っ!」
「ん? ん〜、眠いですよぅ・・・」
「早く起きてくださらないと、朝餉が冷めてしまいますよ?」
「・・・もう少しだけ、寝させてください・・・神谷さん・・・」
爽やかな朝の空気の中に響いたセイの声に、いつものように総司が返事を返した。
隊士部屋で枕を並べていた頃の遣り取りのように。
「・・・かみ・・・やさんっ!?」
がばりと起き上がった総司の前ではセイがクスクスと笑っている。
先笄に結った髪と萌黄の小袖が若妻然としていて、総司の頬に血の気が上がってくる。
「おはようございます、沖田先生。早く顔を洗ってきてくださいね」
昨夜の名残かセイの瞳は赤みを残していたが、その様子は隊に居た頃と
何の変わりも無く見えた。
そんなセイに背を押されるように部屋を出されながら、いつの間に自分は
眠ってしまったのだろうかと首をかしげつつ、総司は井戸場へと足を向けた。
朝餉を済ませて食後のお茶を片手に、どこか寂しい庭を眺めていた総司の前へ
セイが座った。
きちんと正座をし、覚悟を決めたような視線に自然総司の背筋も伸びる。
「色々と考えたのですが、沖田先生のお考えは私にはよく理解できている
つもりです」
突然のセイの言葉に総司は目を瞬く。
「殿様方の肝煎りですからそうそう離縁などできませんけれど、
元々隊では一緒の部屋で寝起きをしていたのですから。
今まで通り兄弟のようにやっていけば良いだけです」
「え、え? ちょっと待ってください、神谷さん」
総司の頭は混乱していた。
セイの知っている自分の考えとは何だろう、兄弟のようにって?
やはりセイにとっての自分は斎藤同様に兄であり師匠でしか無かったのか。
それを改めて告げて、これからもその関係を続けると宣言しているのか。
「あ、あの。貴女が嫌だと言うのなら、私は屯所で寝泊りできますし・・・」
ぐっと腹に力を入れなければ出ようとしない言葉を無理に押し出した総司へ
セイが微笑みながら言葉を返した。
「でもしばらくはこの家で生活しなくては周囲に心配をかけてしまいますもの。
沖田先生には窮屈かもしれませんけれど、少しの間我慢してくださいね。
ああ、今日から休む部屋を別々にしたら良いですね。それだったら沖田先生も
気詰まりな思いをせずに、この家でお休みになれるでしょう?」
あまりに明るいセイの声音に総司は絶句する。
その沈黙を了承と取ったのかセイが膝元に視線を落して言葉を続けた。
「そのうち私も自分で出来る仕事を見つけます。ほとぼりが冷めた頃に
別居すれば・・・いずれは互いに身軽になれると思います。
それまでご迷惑だとは思いますが、よろしくお願いいたします」
視線を落していたセイは気づかなかった。
総司の顔がひどく強張っていた事に。
自分はこんなに好きなのに。
今にもこの手に抱き締めて、誰にも渡さぬと叫びたいのに。
自分がこれほど惚れている娘が「いずれは別居して、その上で身軽に」と
言い切ったのだ。
それは事実上の離縁宣告。
目の前の愛しい娘がどこまでも遠く感じて総司の心は凍りついた。
そしてその日から当人達にとっては切なく苦しい日々が。
周囲から見たなら、ただ笑えるだけの間抜けにも愚かしい日々が始まったのだった。
静謐が支配する副長室まで、ざわざわとざわめきが届いてきた。
江戸へ送る文を頼みに土方の元へ足を運んでいた近藤が首を傾げた。
「朝から随分にぎやかだな」
「ったく、落ち着きのねぇ野郎どもだ」
苛立たしげに土方が言い捨てると同時に、近づいてきたざわめきが
部屋の前で止まり、聞き覚えのある声がかけられた。
「副長、神谷です。宜しいでしょうか?」
一瞬近藤と顔を見合わせ、奇妙な表情を浮かべた土方が諾を返した。
その言葉を聞いて部屋へと入ってきたセイが近藤も同室していた事に頬を緩め、
二人の前に腰を下ろすと畳に両手をついた。
背後からは総司も部屋へと入ってくる。
そのまた後ろには、幹部達はじめ隊士の数人が何事かと廊下の向こうから
覗き込んでいた。
「おはようございます。この度は私の愚行を寛大なお心でお許しいただいた上に
あのような身に余る処遇をいただき、今更でございますが、深く御礼申し上げます」
若妻姿ながらその口上と身に纏った雰囲気はどう考えても神谷清三郎だった
セイの姿と重なって見える。
近藤が困ったように苦笑した。
「神谷、いや、おセイさん。手を上げなさい。君の働きは私達も充分に認めていたんだ。
ただ女子の身に、これ以上血生臭い暮らしをさせたくなかっただけなんだよ」
土方も頷いている。
「重ね重ねの有り難いお言葉。局長副長をはじめ、皆様方のご好意は
生涯胸に刻んで生きて参る所存です。されど・・・」
土方が「そらきた」と身構え、総司が視線を泳がせた。
近藤だけが黙って次の言葉を待っている。
「私は長く隊で勤めさせていただきました。日々忙しく立ち働く事が身についております。
ここ数日、沖田先生の家を守る役目を果たすべく家におりましたが、
このままでは気鬱の病になるやもしれません」
その言葉には近藤や土方も胸の中で大いに頷いた。
隊で走り回って仕事をしているセイをずっと見てきたのだ。
すぐに妻として家に閉じこもれというのも無理があるだろう。
「ですので我侭は重々承知なれど、両先生にお願いがございます。毎日とは
申しませんが、私に隊の内向きの仕事を手伝うお許しを頂けませんでしょうか」
近藤と土方が視線を交わす。
確かにセイの能力を家庭内だけに閉じ込めてしまうのは勿体無いと感じる。
それなりの大所帯になっている新選組だが、完全に信頼できる隊士は
それほど多い訳ではない。
それに関してセイは大いに信頼できる隊士だったのだ。
ただ一点、女子だという事を秘していた事を除けば。
「確かに・・・かみ、いや、おセイさんに手を貸して貰えたら助かるな」
近藤の脳裏に掃除洗濯など、隊士達の身の回りの事に細々と気を配っていた
セイの働きが思いだされる。
「全く使えねぇって訳でもねぇだろうしな、神・・・お、お、おセイさんは」
実に言いにくそうに名を呼んだ土方の脳裏には、書類整理や文の代書を
てきぱきとこなすセイの姿が浮かんでいる。
傷病者の手当てとて、セイがいなくなってから不手際が多いと報告が来ていた。
土方が頷いたのを見た近藤がセイの背後に視線を移した。
「だが、総司は良いのか?」
仮にも祝言を挙げたばかりの妻なのだ。
こんな男ばかりの隊の中に放り出したいとは思えない。
そんな近藤の親心とも言える言葉に総司は苦笑で返す。
「ここで使って貰えなければ、この人はどこで仕事を始めるか判ったものでは
ないんですよ。到底ひとつ処に落ち着いていられる人じゃありませんしね」
そんな事は自分が一番良く知っていると言葉を続けた。
実際すでに松本法眼の所へ出向いて病人相手の仕事は無いかと聞いているのだ。
けれど京で診療所を構えている訳でもない松本と南部は
定期的に人手が必要な訳ではない。
時折飛び込んでくる怪我人病人を、時間がある時に見ているだけなのだから。
そんなこんなで仕事先を探そうとするセイを押し止め、屯所での雑事を勧めたのは
実は総司だったのだから反対するはずもない。
「では家の事に支障が出ない程度に手伝って貰う事とするか」
近藤の言葉に土方も頷いた。
「良かったですね、神谷さん」
総司の言葉にセイが微笑む。
「ああ、ただ、もうひとつだけお願いが」
セイが改めて畳に指をついた。
「なんだい、か・・・おセイさん」
慣れ親しんだ呼び名はそうそう改まらず、近藤はその度に苦笑を浮かべる。
「その呼び名です。確かに私はもはや神谷清三郎ではありませんが、
長く隊にお世話になっていた身です。皆様呼び難いと思われますし、
私自身“神谷”の方が馴染みがあります。できましたら今後も隊での呼称は
“神谷”を使わせていただけないでしょうか」
近藤が腕を組んで首を傾げ、土方も眉間に皺を寄せる。
確かに“神谷”の方が呼びやすい。
隊の人間達もそれは同じ事だろう。
けれどすでに人妻となった女子を、若衆のように呼ばわるのはどんなものだろうか。
セイが願い出たと同時にすぅと表情を消していた総司が口を開いた。
「私は良いと思いますよ。神谷さんは神谷さんなんです。呼び名なんて
それほど気にする事ではありません。皆が呼びやすい方がこの人も仕事が
しやすいでしょうしね」
言葉の途中から諦めたような笑みを浮かべる弟分の姿に近藤達も了承し、
セイは隊士時代と変わらず“神谷”と呼ばれる事となったのだった。
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